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あの日ジャズを聴いた No.2

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 最近、危険ドラッグによる交通事故等の話題が、世間を騒がせている。酒もそうだが、正常な運転が出来ない状態で、ハンドルを握るのは、絶対に許されることではない。
ま、オレも数十年前に、クリスマスの日に、ライブで酒を飲み、帰り道で酒気帯びで捕まった過去がある。だから人のことをとやかく言える立場にはないが、それ以後は肝に銘じている。
こういった薬物に手を染めてしまうのは、性格的に内気で、気の弱い奴が多い。自分の抱えているジレンマを、自らの手で解決出来ないのだ。だから頼る物が必要になってくる。今は危険ドラッグだが、オレが二十歳の頃は、それは睡眠薬だった。ハイミナール、ノルモレストといった眠剤が巷に氾濫していた。
オレが最初にステージを踏んだ、新宿東口にあった「なぎさ」というライブ・ハウスは、店のマスターも、数人いる客も、もちろんミュージシャンも、皆ラリパッパだった。
オレと同期の数人の新人は、眠剤には手を出さなかったが、その代わり酒を飲んだ。
とにかく信じがたい光景だった。ラリるというのは、中枢神経に影響が出る状況をいう。オレは試したことないので、経験者の話によるだけだが、要するに泥酔状態だ。
ラリって椅子から転げ落ちるピアニスト。マウスピースをくわえられないサックス奏者。殆ど演奏の体をなさない有様だが、客は文句を言わなかった。ラリっているので、音さえ鳴っていれば、自分の世界に浸れるのだ。
かつて新宿に「風月堂」という喫茶店があった。最初はクラシックを流す店だったようだが、オレがプロになった60年後半は、ヒッピーやフーテンのたまり場と化していた。
東口駅前広場はフーテンだらけだった。一概にはいえないが、ベトナム戦争が大きな原因となったのは間違いがない。夢の国だったはずのアメリカが、冷戦と称される米ロの代理戦争の泥沼にはまった。
学生たちは厭戦を叫び、日米安保条約の破棄を政府に求めた。過激派に依るテロやゲバが頻発した。事の善悪は置くとして、その当時の若者、学生は燃えていた。それは同時にアメリカに対する夢の終わりだったのだ。
ベトナム戦争を契機に、アメリカ本土でもヤッピーに代わり、自由な価値観を模索するヒッピーが台頭する。ラブ&ピースというわけだ。その波が日本にも波及したのだ。若者は髪を伸ばし、気ままな服装で町を歩いた。
オレも髪を肩まで伸ばした。あれほどM字額に憧れていたのに、その思いはあっさり捨て去った。
68年10月21日。国際反戦デーだったその日、新宿で「新宿騒乱」が勃発する。左翼学生と機動隊が衝突した。その日、オレは例の「なぎさ」で、長い髪を振り乱しラリパッパを相手に演奏をしていた。休憩になると表に出て、機動隊めがけて石を投げた。学生たちは火炎瓶も投げていた。機動隊は催涙弾やゴム弾を水平撃ちして対抗した。
やがて休憩時間が終わると、オレは再び店に戻り、目の焦点が合わない客に向かってベースを弾き始めた。まるで外の騒乱が嘘のようだった。

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